理解して貰えるって、いくつになっても・・・、嬉しいね〜♪
2006年10月15日コメント (4) 最近、TVなどで、可愛いロボットの動きを見ることがある。
昔のロボットのイメージと全く違う、いかにも、繊細な日本人が開発した・・・って感じの動きのロボット。
あれを見て、確かに、ロボットは良く出来てるけど、人間はもっと、「凄い!」って、改めて、神さまの造詣品に対して、畏敬の念を持った。
その、数え切れないほどのパーツを与えられてる人間って、誰彼なく、素晴らしいんだって・・・。
その複雑怪奇(?)な人間同士だから、お互いを理解し合うのはかなり大変なことだと思う。
だから、人間、年齢に関係なく、自分のことを周りから理解して貰えることって、嬉しいことでは無いだろうか。
学校内で起こる「いじめ」にしても、会社内での確執も、老人ホームでの諍いも、世界各国間の認識の差も、全て、相手を互いに理解し合えたら・・・、ずいぶん、違った平和な世界となることだろう。
両親はもとより、周りの家族・知人から無条件に受け入れられていた赤ちゃん時代。
いくつくらいから、溝が見え始めるのだろうか・・・。
人間が、それぞれ、別の「固体」だと言う認識を持つことが必要なのかも知れない。
別々の固体なのだから、考えも違っていて当たり前。それを少しでも近づけながら、お互いを理解し合うことが、一番大切なことなのだろう。
大人になってからの友人との交わりを見れば、そのことに気づかされる。
必ずしも、100%合意した友情ではなく、ある部分において、深い「絆」で信頼し合ってる・・・ということが分かる。
今、少子化傾向の学校で、受け持ちの生徒のことをどれだけ理解・把握している先生が居られるだろうか・・・。
介護しているお年寄りのことを、どれだけ分かってるスタッフが居るのだろうか・・・。
子育ても終え、4人の老親も見送った今、「私は、どれだけ相手を理解していたのだろうか・・・」と、自責の念に駆られることがある。
忙しいことを口実に、義務的に、投げやりに接していたのでは無いだろうか・・・。
息子達の才能を母親の私が摘んでしまったのでは無いだろうか・・・。
ひょんなことから、勉強し出した、「ハングル」の講座。
早いもので、1年が経とうとしている。
15人ほどのクラスから始めたのだが、中々、先生とも打ち解けず、錆付いた頭を動かすのには苦労した。
が、この9月から、3人の生徒だけの個人レッスンに切り替えた。
以前と同じ教科書を使用しているにもかかわらず、その中身の充実振りには驚かされる。
少人数ゆえ、先生とのコミュニケーションも取り易くなった。
私は、普段から、頭の中で考えてることを全て口に出来ずに、所々の単語(?)のみ、音声にしてしまうという、妙な癖がある。
自分の中では、きちんと繋がってる文章でも、時々に発せられる単語のみだと、相手には、支離滅裂に聞こえるし、誤解も生じる。
長年、連れ添ってる主人や家族にすら、たまに、
「何を考えてるのか、見当も着かない。よく、頭の中で吟味してから、口に出せ!」
と、叱られてしまう始末だ。
先日も、そのハングルの教室で、今まで、漠然としていたことが、妙に納得できて、嬉しさの余り、意味不明な言葉を次々と発っしてしまったのだ。
例によって、頭の中では、理路整然(?)と、並んでいる文脈が、切れ切れの言葉となって飛び出してきたのだ。
はじめ、先生は驚いていらした様子だったが、授業が終わる頃にになると、その癖も理解してくださるようになり、
「今、○○さんの脳内コンピューターが廻ってるのですね〜」
と、笑いながら楽しむ様子を見せてくれたのだ。
確かに、その日は、いつもより内容がす〜っと、頭の中に入って行ったし、理解できるから楽しい授業であったのだ。
たとえ、戸ば口であったにせよ、先生が軽蔑することなく、理解を示してくれたことが何よりも嬉しかった。
こんな、おばあさんになっても、嬉しいのだから、若い人や小さな子供は、もっと嬉しいに違いないだろうと思った。
お互いに理解し合える・・・って、いいことだ。
理解して貰えるって、いくつになっても・・・、嬉しい!!
昔のロボットのイメージと全く違う、いかにも、繊細な日本人が開発した・・・って感じの動きのロボット。
あれを見て、確かに、ロボットは良く出来てるけど、人間はもっと、「凄い!」って、改めて、神さまの造詣品に対して、畏敬の念を持った。
その、数え切れないほどのパーツを与えられてる人間って、誰彼なく、素晴らしいんだって・・・。
その複雑怪奇(?)な人間同士だから、お互いを理解し合うのはかなり大変なことだと思う。
だから、人間、年齢に関係なく、自分のことを周りから理解して貰えることって、嬉しいことでは無いだろうか。
学校内で起こる「いじめ」にしても、会社内での確執も、老人ホームでの諍いも、世界各国間の認識の差も、全て、相手を互いに理解し合えたら・・・、ずいぶん、違った平和な世界となることだろう。
両親はもとより、周りの家族・知人から無条件に受け入れられていた赤ちゃん時代。
いくつくらいから、溝が見え始めるのだろうか・・・。
人間が、それぞれ、別の「固体」だと言う認識を持つことが必要なのかも知れない。
別々の固体なのだから、考えも違っていて当たり前。それを少しでも近づけながら、お互いを理解し合うことが、一番大切なことなのだろう。
大人になってからの友人との交わりを見れば、そのことに気づかされる。
必ずしも、100%合意した友情ではなく、ある部分において、深い「絆」で信頼し合ってる・・・ということが分かる。
今、少子化傾向の学校で、受け持ちの生徒のことをどれだけ理解・把握している先生が居られるだろうか・・・。
介護しているお年寄りのことを、どれだけ分かってるスタッフが居るのだろうか・・・。
子育ても終え、4人の老親も見送った今、「私は、どれだけ相手を理解していたのだろうか・・・」と、自責の念に駆られることがある。
忙しいことを口実に、義務的に、投げやりに接していたのでは無いだろうか・・・。
息子達の才能を母親の私が摘んでしまったのでは無いだろうか・・・。
ひょんなことから、勉強し出した、「ハングル」の講座。
早いもので、1年が経とうとしている。
15人ほどのクラスから始めたのだが、中々、先生とも打ち解けず、錆付いた頭を動かすのには苦労した。
が、この9月から、3人の生徒だけの個人レッスンに切り替えた。
以前と同じ教科書を使用しているにもかかわらず、その中身の充実振りには驚かされる。
少人数ゆえ、先生とのコミュニケーションも取り易くなった。
私は、普段から、頭の中で考えてることを全て口に出来ずに、所々の単語(?)のみ、音声にしてしまうという、妙な癖がある。
自分の中では、きちんと繋がってる文章でも、時々に発せられる単語のみだと、相手には、支離滅裂に聞こえるし、誤解も生じる。
長年、連れ添ってる主人や家族にすら、たまに、
「何を考えてるのか、見当も着かない。よく、頭の中で吟味してから、口に出せ!」
と、叱られてしまう始末だ。
先日も、そのハングルの教室で、今まで、漠然としていたことが、妙に納得できて、嬉しさの余り、意味不明な言葉を次々と発っしてしまったのだ。
例によって、頭の中では、理路整然(?)と、並んでいる文脈が、切れ切れの言葉となって飛び出してきたのだ。
はじめ、先生は驚いていらした様子だったが、授業が終わる頃にになると、その癖も理解してくださるようになり、
「今、○○さんの脳内コンピューターが廻ってるのですね〜」
と、笑いながら楽しむ様子を見せてくれたのだ。
確かに、その日は、いつもより内容がす〜っと、頭の中に入って行ったし、理解できるから楽しい授業であったのだ。
たとえ、戸ば口であったにせよ、先生が軽蔑することなく、理解を示してくれたことが何よりも嬉しかった。
こんな、おばあさんになっても、嬉しいのだから、若い人や小さな子供は、もっと嬉しいに違いないだろうと思った。
お互いに理解し合える・・・って、いいことだ。
理解して貰えるって、いくつになっても・・・、嬉しい!!
コメント
お体の調子が良くなられたようで安心しました。
私は年とともにココロが硬くなってるなと思う今日この頃。
なので、アミさんのお話が響きました。
私も人に理解され共感して貰えると、とても嬉しく感じます。もっと自分の心を広くしたいです。
P.S
日曜日にサンウの『青春漫画』見てきました。
前回の『美しき野獣』のワイルドさは全くなく
とても可愛い笑顔が満載でした♪
いろんな人の立場に立って、どれだけの事を考えられるか。
素直に他人を受け入れられるような人に、なりたいです。
私も、ココロ、硬くなってますよ〜。
だから、一生懸命、好きなこと(栄養素)取り入れて、柔らかくなるようにしています。
読書であったり、好きなTV番組観賞であったり、散策したり、友人と談笑したり、猫と遊んだり・・・。
時には、未知の料理に挑戦したり・・・。
もっとも、これは失敗作が多いですが。(笑)
私を含め、皆、傷つくことを恐れているんですね〜。
だから、防御の為、硬い殻をまとっちゃう・・・。
最近の子供達にしても、昔のように、心から笑ってる子。少なくなりましたよね〜。
楽しいこと。自分の中に探せれば良いのですが・・・。
一番のお薬になるのに・・・。
PS,アジア競技大会2006/ドーハで、聖火ランナーとしてのサンウ氏を見ましたよ〜。
1号君。おめでとうございます! 晴れやかなお姿が浮かんできます。 大いに、喜びを堪能してくださいね〜。
「想像力」は生まれながらの感性もあるでしょうが、親が子供のそれを伸ばす手助けは出来るかも知れませんね。
【童話】、たくさん読んで欲しいです。
30歳を過ぎた息子を前にして、「お母さんは、あなた達に余り、読んであげれなくて後悔している」って、謝ったことありました。
言い訳じみてますが、大家族の中の嫁でしたから、そんなゆとりもなかったのです。
唯一、寝かしつける時に童謡を歌ってあげたことくらいでした。
ただ、読書好きの母親ですから、家中に本は散乱してましたが・・・。(笑)