3年前、90歳を目前に亡くなった父は、大正生まれの頑固な人だった。
父の生家は足袋問屋だったそうで、倉庫にはロール状の生地がたくさん積まれていたそうだ。
奉公人も大勢居て、それこそ、『乳母日傘』で育ったそうな。
その生家も、父が5歳の頃没落した。
「24の瞳」(映画の題名)に出て来る様な、絣の着物姿の小学生の頃の父の写真を見たことがある。
口をぎゅっと結んで、キラキラと力強い目をした少年だった。
父は、割りに勉強が好きな方で、将来は「新聞記者」になる夢を持っていたそうだ。
だが、7人姉弟の長男の父には、下に5人もの弟が居た。
貧乏を絵に描いたような生家での暮らし。
父は、中学校を中退し、近所の印刷工場に就職したそうだ。
夜には、学校に通わせてくれると言う条件だったそうだが、学校に通学できたのは初めの一ヶ月のみ。
それでも、大好きな活字と一緒の生活は楽しかったそうだ。
自分は勉学半ばにして生計を助けたのに、弟たちには、それぞれ学費を出して学校に通わせたそうだ。
叔父の一人は、役人になって、わが世の春を謳歌した人もいるが、それも皆、父の犠牲的精神の賜物だと、娘としては父を誇りに思っている。
そんな父が、いつも手放さず机の上においてあったのが、新聞、赤鉛筆、辞書、そして大きな天眼鏡だった。
今週は、『新聞週間』だそうな。
『新聞と私』と題した投稿が目に付く。
父も生きていたら、感慨深く読んでいたことだろう。
印刷所を辞めて、親戚の家に『小僧』(差別用語かもしれないが、昭和の初めには歴然として、この制度は残っていたようだ)として住み込んだ父。
親戚と言うだけで、同僚からは白い目で見られ、父はかなりつらい思いもしたようだ。
戦後、軍需景気の影響か、独立して商いを始めた父の事業は軌道に乗り、それなりの財を築けたそうだ。
親交深かった、大学教授や医師の方々とも、対等にお付き合いできたのも、『新聞』のお陰だと父は述懐していた。
昨今、活字離れが叫ばれているようだ。
確かに、最新のニュースはネットの方が早い。
でも、新聞には、ネットでは読めないような、活字の間の余韻(?)を汲み取ることが出来る。
父のように、赤鉛筆を持たないまでも、私も新聞から得る知識は多い。
記事だけでなく、広告からも様々な事柄を会得できるようだ。
生前は、どちらかと言うと『母びいき』の私だったから、父とは余り深い話をしなかったのだけれど、今になって、無言の父の背中から学ぶことが多くなった。
不肖の娘を、父は笑っているだろう・・・。
新聞屋さんの朝は早い。
今朝も、まだ日が明けぬうちから郵便受けには新聞が。
主人には悪いが、今朝も私が一番に新聞を開く。
「新聞はお父さんが見てからよ~。 家長のお父さんより、先に開けてはいけませんよ!」
と言う、母の声が聞こえてくる・・・。
父の生家は足袋問屋だったそうで、倉庫にはロール状の生地がたくさん積まれていたそうだ。
奉公人も大勢居て、それこそ、『乳母日傘』で育ったそうな。
その生家も、父が5歳の頃没落した。
「24の瞳」(映画の題名)に出て来る様な、絣の着物姿の小学生の頃の父の写真を見たことがある。
口をぎゅっと結んで、キラキラと力強い目をした少年だった。
父は、割りに勉強が好きな方で、将来は「新聞記者」になる夢を持っていたそうだ。
だが、7人姉弟の長男の父には、下に5人もの弟が居た。
貧乏を絵に描いたような生家での暮らし。
父は、中学校を中退し、近所の印刷工場に就職したそうだ。
夜には、学校に通わせてくれると言う条件だったそうだが、学校に通学できたのは初めの一ヶ月のみ。
それでも、大好きな活字と一緒の生活は楽しかったそうだ。
自分は勉学半ばにして生計を助けたのに、弟たちには、それぞれ学費を出して学校に通わせたそうだ。
叔父の一人は、役人になって、わが世の春を謳歌した人もいるが、それも皆、父の犠牲的精神の賜物だと、娘としては父を誇りに思っている。
そんな父が、いつも手放さず机の上においてあったのが、新聞、赤鉛筆、辞書、そして大きな天眼鏡だった。
今週は、『新聞週間』だそうな。
『新聞と私』と題した投稿が目に付く。
父も生きていたら、感慨深く読んでいたことだろう。
印刷所を辞めて、親戚の家に『小僧』(差別用語かもしれないが、昭和の初めには歴然として、この制度は残っていたようだ)として住み込んだ父。
親戚と言うだけで、同僚からは白い目で見られ、父はかなりつらい思いもしたようだ。
戦後、軍需景気の影響か、独立して商いを始めた父の事業は軌道に乗り、それなりの財を築けたそうだ。
親交深かった、大学教授や医師の方々とも、対等にお付き合いできたのも、『新聞』のお陰だと父は述懐していた。
昨今、活字離れが叫ばれているようだ。
確かに、最新のニュースはネットの方が早い。
でも、新聞には、ネットでは読めないような、活字の間の余韻(?)を汲み取ることが出来る。
父のように、赤鉛筆を持たないまでも、私も新聞から得る知識は多い。
記事だけでなく、広告からも様々な事柄を会得できるようだ。
生前は、どちらかと言うと『母びいき』の私だったから、父とは余り深い話をしなかったのだけれど、今になって、無言の父の背中から学ぶことが多くなった。
不肖の娘を、父は笑っているだろう・・・。
新聞屋さんの朝は早い。
今朝も、まだ日が明けぬうちから郵便受けには新聞が。
主人には悪いが、今朝も私が一番に新聞を開く。
「新聞はお父さんが見てからよ~。 家長のお父さんより、先に開けてはいけませんよ!」
と言う、母の声が聞こえてくる・・・。
コメント
『家長』なんて言葉は死語でしょう~。 今の日本は。
今朝も、主人より早くに、新聞を開きました。(笑)
そうそう、韓国ドラマが好きな点は、「長幼の大切さ」が歴然と息づいてるところかな~。
一昔前の日本のような・・・。
どう、思われますか~?
体験から学んだモノほど愛着あるモノはない。
当時赤旗新聞はナンカ田舎では国禁常態なるイメージ。
国策的な時代背景もありました。密かに5紙ほど配布。
貧乏なのに村でも少なき頑固に九州一帯の西日本新聞購読。
その西日本新聞に異常なる活字は1958年。
「神様 仏様 稲尾様」
三連敗のあとの奇跡の四連勝。
野武士西鉄VS読売ジャイアンツ
7試合中6試合に登板、、第3戦以降は5連投うち5試合に先発し4完投と人間技ではない異様である。おまけのピッチャー稲尾のシリーズ史上初となるサヨナラホームラン。
実は幼子時分ゆえ覚えてるのは大きな見出しの活字のみ。
畳の下に隠してた宝物。
アト一人で野球チームが出来る貧乏人の子だくさんの末っ子父母は明治人ゆえ「家長」どこでない専横。
楽しく読ませていただきました。反省多謝。
本当に、新聞配達の方には頭が下がります。
早起きの婆がゴミ出しですれ違うのは、牛乳配達の人と新聞やさん。
こちとらは、雨が降れば、「えい! 今日は止めた!」と、サボることも出来ますが、配達の方はそうは行きますまい。 大変なことです。
それを8年間も続けられた由。 驚きました。
父との思い出話、何か、参考になりましたら幸いです。(笑)