「味噌っかす」と言う言葉をご存じだろうか・・・。
多分、東京の方言で、

  「子供たちの仲間にも入れてもらえない小さな子」

と言う意味だと思う。
決して、「いじめ」や「仲間外れ」ではなく、

  「まだ、小さいのだから、仲間は無理だよ!」

と言う、暖かい目線での言葉であったと思う。

72年前の夏。
今年の東京とは全く違う暑い夏であったと聞いている。
その年の3月に東京の下町は大空襲を受けた。
東京は真っ赤に燃え上がり、その異常なまでの赤い空は、遠く離れた疎開先でも見えたとか・・・。

昭和18年生まれの私は、その時、2歳になったばかり。
戦地に赴いてる父のいない母子家庭の身。
親戚の者が心配して、藤沢に疎開させられていたのだ。
私は、今にして思えば、「みそっかす」。
戦争の記憶など、リアルタイムに生きていたのに、何一つ覚えていない。
全部、後になって、回りの者から植え付けられた記憶だ。

その後、浜松、横須賀と疎開先を転々とし、東京の下町に戻ってきたのは5歳の時。
小学校の入学の時からの記憶が、自分の記憶だ。
だから、戦争のことはまるで知らない。
戦後、若い両親は、死に物狂いで働いて、それなりの財をなした。
両親の庇護のもと、何不自由なく育った私。
TVなどで、戦争の話が出るたびに、ちくっと棘が刺さったような痛みを覚える。
何も知らないのだから・・・。

中国に二度も赴いていた父。
留守宅を女の細腕一本で守っていた母。
両親は、戦争の話は、子供たちには、一切話してくれなかった。
意志を持って、口を閉ざしたが如くに・・・。

戦争は、あってはならない!
それだけは、どんな理由があるにせよ、正しいことだと思う。

コメント

ありす
2017年8月17日8:19

おみそにする、という言葉は聞いたことがあります。みそっかすはちょっとキツイので柔らかく言うのでしょうか。
関西ではあまりその手の言葉がありません。まあ、いっつも後ろからくっついてくる子は「金魚のフン」とか言うけどこれは標準語?大辞林引いたら「金魚のうんこ」とありました。あらまー。

私の知ってる戦争は三宮駅に座っていた傷痍軍人のおもらいさん(物乞い)。包帯をぐるぐる巻いてるので怖くて近寄れませんでしたが、おばあちゃんあたりは100円札とかあげてました。家の勝手口にやってくる人もいました。いつ頃からいなくなったのでしょうね。

まるこ
2017年8月17日9:16

アミさん、みそっかす。私の子供時分も言ってました。お前にはま無理だからねって意味で。おみそとも言ってましたよ。
そう言われると無性に悔しくて。早く大きくなりたいとも思ってました。
アミさんは私の母と1つ違いですね。母も栃木に疎開していたらしいですが、何せ3歳だったので余り覚えてないようです。ただ父が母より9歳上なので、案外鮮明に覚えているようです。祖父も兵隊に行かずに済み、戦闘機を作る勤労奉仕をしていた様な事を言ってました。私の祖父母は戦争の話をよくしていました。

きな臭い情勢ですが、戦争は絶対ダメです。
世界中で紛争や内戦があり悲惨な光景を目にしますが、
武力で解決などあってはなりません。
戦争は全てを奪い狂わせます。
私は戦争は絶対反対です。

アミ
2017年8月17日10:59

ありすさん!

私が育った台東区は、浅草・上野と言う繁華街が二つあります。
傷痍軍人さんが道端に多くいましたね~。
でも、いつごろからか、姿が見えなくなって・・・。
日本の復興期と重なるのでしょうか。
味噌っかすの私は、復興の時も子供で、何も手助け出来なかった…と言う負い目が棘として残っているのでしょうか。
先日、孫娘に、小さかった頃の話をしたら、覚えてないと言われ、ちょっとがっかりしました。(笑)
記憶は、4~5歳にならないと、無理なのかも・・・。

アミ
2017年8月17日11:04

まるこさん!

あらあら! お母様と同じ年代でしたか・・・。
やはり、疎開の経験があるのですね~。
私なんかより上の年代の方は、学校全体で、学童疎開と言うのがあったそうです。
親元を離れ、寂しかったでしょうね~。
私は、赤ん坊にちょっと毛が生えた年齢。
何事も中途半端な性格は、これだったのか・・・と、笑えます!
平和でないと、困ります!!

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